2019年10月14日

音声なし。今日のこと。



とある映画を観た。その映画は、一言で言えば『恋愛モノ』で片づけられるだろう。ただ、僕にとっては少し意味合いが違っていた。カフェの仕事を失った女性がなんとか再就職できた仕事は、回復の見込みのない障害者の男性を励ます仕事だった。彼はバイクに引かれて脊髄損傷する前は人生を謳歌していたために、どうしても自分の不自由さを認めて、乗り越えることができないでいた。でも彼は彼女と接するうちに、いつしか笑顔を取り戻す。という話だ。書いてしまえばなんてことない美談だと誰もが思うだろう。ただこの、邦題「世界一キライなあなたに」という映画は、もう一つ先を示す。彼は彼女に心を開き、自分の中の愛情を認めて素直になり、彼女と出会った幸せ、彼女が自分を愛してくれる幸せも、しっかりと認識する。認識した上で、それでも彼は安楽死を選ぶのだ。

僕は泣いた。最初はただ感動して、または悲しくて泣いているのだと思った。日頃僕は、涙はストレスを大量に流す薬、というドライな認識をしているので、泣きながらも冷静にそう思っていた。でも泣くうちに自分の様子がどうもおかしいと感じ始める。そして理解した。この涙は、理解の涙だ。生まれてこのかた経験したことない種類のものだ。僕は、たとえ今どれだけ幸せで、大切な人と相思相愛でもそれでも死を選ぶ彼の選択を心から理解したのだ。まわりがなんと言おうと、それでも死にたい気持ちに正直な彼を見て、自分も本当の本当は死にたいのだと理解してしまった。頑張って生きるというのは、強がって生きるのと同じことだ。僕は障害を持ってから14年間、意識的にも無意識的にも強がることで生きてこられた。引き算ではなく足し算をして、自分の幸せを指折り数えて、それを自分に言い聞かせてきた。自分のために他人にも言い聞かせたことさえあった。少しでもベターな人生になるように。

結婚した今は、妻を支えることを自分の支えとした。それらの気持ちは全部、嘘じゃない。嘘ではないけれど、強がりが含まれていたことを、その映画を観た僕はようやく理解した。僕が無視してきた弱音を代弁し、実現してくれたと感じた。愛し愛されて幸せを認めた上、安楽死を選んだ彼を羨ましいと思った。だが、彼の後を追いたいという話ではない。彼は僕が決して表現できなかった弱音の理解者になってくれた、という話だ。「死ぬなんて誰でもできるだろう」「弱音は甘えだろう」と言う、見えない敵の代弁者もまた僕自身だったから、自力ではまず、その理解には辿り着けなかったと思う。他人はもちろん自分も気づかないから癒えるはずもない傷に、手当てをしてもらったような気持ちだ。僕はこの映画に感謝したい。ゲームオブスローンズのデナーリス役以外で初めて見るエミリア・クラークは、魅力的だった。  2019.10.14

posted by おとし太 at 16:49| 音声なし記事のみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする